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【20061216山陰中央新報「教えの庭から」掲載】
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(飯塚大幸/一畑薬師管長)
「禅宗坊主たる者、一年の締めくくりと始まりくらいは、坐禅をするのがよろしい」
師匠の方針で、小僧時代は坐禅をしながら新年を迎えたものです。京都の寺といっても、市内のはずれにあり、そもそも檀家もなければ鐘もない小さな隠居のための寺でした。こんなことを書くと墓場からすたすたと出て来て引っ叩かれるかもしれません。
それは禅僧としての生き方でした。大晦日も更けると、寺にはふだんから坐禅に通う人たちが集まって来ます。そして坐ります。気がつくと、知らないうちに師匠もちゃんと坐っています。冷えてしんとする中、やがてあちらこちらの除夜の鐘が聞こえて来るのです。大陸的な甲高い音、ずっしりと重く低い音。その音色も様々です。
年が明ければ、師匠を慕う大勢の年始客が次から次へと後を絶たない三賀日が始まります。年明けを前にした、心静かなひととき。準備は万端。そばにいる私たち弟子もほっとひと息入れて坐ります。そういう除夜もありました。
除夜の鐘は、百八回撞(つ)くことになっています。ご存知のように、人の煩悩は百八あるといわれ、それをひとつひとつ撞いていくのです。鐘を撞き、その音を聞くことによって、この一年のうちに作した過ちを懺悔(さんげ)し、清らかな心になって新しい年を迎えるのです。
なぜ煩悩は百八あるのか? 簡単に言うと、眼・耳・鼻・舌・身・意を六根といい、人間の執着や愛着の元となる感覚や意識のことです。この六根にはそれぞれ、好・悪・平(好悪どちらでもない)の三種があるので十八となり、さらに染・浄の二種、さらに過去・現在・未来の三種がそれぞれ掛け合わされて、百八の煩悩になるということです。
大変理屈っぽいので、やはり百八煩悩と覚えるだけでよいでしょう。また、四苦八苦をもとに、四×九+八×九という計算で百八としたものもあります。面白いながらも明らかに俗説です。
さて、何かと我が身心を悩ます煩悩ですが、けっして悪いとばかりは言えません。煩悩、つまりある程度の欲望や意欲がなければ、人生、何も成し得ないからです。悟りもまた煩悩あっての心境です。むしろ、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚痴(ぐち)、これらを三毒(さんどく)と称して強く諫(いさ)めております。煩悩の根源です。おごらない、謙虚で誠実な生き方をしたいものです。
一畑薬師でも、実はひそかな年越しの坐禅があります。毎週の坐禅会の常連さんたちが、こっそり来て坐っているのです。なかなか一般の方に門戸は開けられませんので、あくまでひそかにです。
私はといえば、年越しを目前にあれこれ気ばかりがまわっています。参道の百八燈篭にろうそくが灯っているのか、除夜の鐘はちゃんと鳴るのか、境内に暗くて不案内なところはないのかと。なかなか落ち着いて坐るどころではありません。しかし、だからこそ静かに坐ることが大切なのです。
そして除夜の鐘。十一時から撞き始めます。一般に開放され誰でも撞けます。午前零時半から、新年最初のおつとめ、修正会(しゅうしょうえ)です。静かに行く年を送り、来る年を迎える。そんな時間を持つこともよいです。
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