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【20060203山陰中央新報/教えの庭から】
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(飯塚大幸/一畑薬師管長)
「鬼は〜内、福は〜外」 私の小僧時代はこう唱えて豆まきをしたものです。
「日本中で外に追い出された鬼どもは、路頭に迷うて行くところがないじゃろう」今は亡き師匠の慈悲心でした。「行き場のない鬼はうちに来たらえぇ」、「福はようけあるからなぁ、よそに行け」という理屈です。何も求めぬ姿勢が実に徹底されています。
私たち弟子は次第にエスカレートし、障子に豆の穴が開くほどお互いに投げ合い、最後は叱られたものです。たわいのないことに夢中になる弟子の姿。師匠はひそかに喜んでいただろうと思います。質素な修行生活のちょっとした楽しみでした。
「鬼は内」という口上。どうやら日本の中で少なからずあるようです。恐ろしい形相で子どもを食ったりする鬼は確かに悪者。しかし、ひとたび仏の教えにふれて改心すると、一転して仏教の守護神となるのです。「鬼は内」が寺や神社に多いのは、鬼でありながら神としてまつられているからでしょう。
「福は内」だけを繰り返すところもあるそうです。「鬼は外」とは言いません。鬼を追い出さないやさしさ、それでも福は欲しい正直さです。「福は内、鬼も内」と、すべて引き受けますというのもあるようです。色々ありますが、やはり「鬼は外」が標準です。
さて、その鬼から子どもを守る仏として、お地蔵さんが有名です。「多くの人々を救いたい」という願いを立てて、あちこちの道端にまつられています。賽(さい)の河原で石積みをする子どもたち。そこへ鬼が来て、めちゃくちゃに壊します。あわててお地蔵さんの衣の袖に隠れる子どもたちは、幾度となく鬼に追い立てられ、その都度、始めから積み上げなければなりません。なぜ、お地蔵さんは鬼を退治して下さらないのでしょうか?
こういう話には、実に面白い智慧が隠されています。ひと昔前までは、日本の社会は物質的に貧しく多くの困難や苦悩がありました。しかし、辛抱してそれらを乗り越え、たくましく生きて行くという美徳があったと思います。現代は、ものに恵まれ豊かになり過ぎたのか、辛抱を疎み、困難を遠ざけ、嫌ならしない、楽しければする、安きに流れる傾向がとても顕著になりました。
仏教では、自分の思うようにならないことを「苦しみ」と説きます。辛苦の数々を鬼に譬えて考えるなら、鬼を退治して真の幸せを実感することはないでしょう。人はまた、鬼によって大いに成長させられるからです。
修行中、本当に嫌で嫌でたまらない鬼のような先輩僧がおりました。寝顔を見て、よほどぶん殴ってやろうかと幾たびか拳を握り締めたものです。結局できませんでした。あれから何十年。たまにその先輩に会います。誰よりも懐かしく、「あ〜、この人には本当にお世話になった」と心から思えるのが不思議です。鬼の面もまた、愛情だったのでしょうか。
実社会とは、厳しく、理不尽あり、淘汰される世界です。そういう現実の中で、少々なことで挫けない心、失敗しても立ち直ることのできる力をちゃんと育みたいと思います。
今日は節分。次第に廃れつつある伝統行事ですが、自分の生きざまを省みて、しっかり豆をまいておきましょう。
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