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【20060428山陰中央新報/教えの庭から】
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(飯塚大幸/一畑薬師管長)
私たちには、合掌という美しい習慣があります。神仏に礼拝するとき、先祖へのお参りのとき、食事をいただく前後に両手を合わせます。合掌とは「掌を合わせる」と漢字で書きます。「たなごころ」という読みは、中国語で手のひらを意味する「手心(てのこころ)」から来ているといいます。つまり、合掌とは単に手を合わせるのではなく、心を合わせるということです。
合掌は、古来インドで行われていた作法の一つで、その起源は仏教よりも古いといわれます。インド人には、右手は清浄、左手は不浄とみて、両手を使い分ける習慣があります。すなわち、食事には右手で、じかに食物をつかみ口に運びます。一方、排便には左手です。水を流しながら手でじかにお尻を洗うのです。その後、手を洗うので汚くありません。
今でもインドへ仏跡巡拝に出かけると、特に地方でこういう光景に出くわします。場合によっては、私たちもバスから降りて同じことをしなければなりません。
両手の使い分けは、何もインドでだけで行われているわけではなく、西欧では右手が聖なる天を象徴し、左手が地獄を象徴していると聞いたことがあります。また、食事の時に左手でパンを取ろうとする子供に、右手で取るように諌めるとか。パンは、キリストの身体であって、聖なる右手で取るべきものであり、悪魔を象徴する左手で取るのは礼儀ではないとか。理由はともかく、左右の手の使い分けは古今東西にあるようです。
両手を合わせる合掌は、祈りのかたちとしておそらく世界中でなされているように思います。事実、私が過去に訪れたほとんどの国では、食事の前に手を合わせて祈りを捧げる姿がありました。祈るときはやはり合掌でした。
仏教では、右手が仏、左手が衆生です。これを合わせて、仏と衆生がひとつになった姿、つまり成仏の相と考えています。そもそも、右手と左手は二元対立を表わしているのです。清浄と不浄、聖と凡、男と女、大人と子供、若と老、健康と病気、生と死、数え上げればきりがありません。
しかし、私たちはどちらか一方を選べるのでしょうか? 二つはともに真実の姿であり、どちらかが本当でどちらかが嘘だとは言えない、背中合わせの姿です。汚いものは嫌いだといって、清いものを選べません。老化は嫌いだから年を取らない人などいません。生まれれば必ず老い、健康はいつか損なわれます。生きるとは、死ぬことが必然です。
両手を合わす合掌の心とは、これら二つの対立した部分を見つめることでしょう。両手を合わせることで、不思議と心は安らぎます。謙虚さと感謝の心に包まれて、理屈ではない世界があらわれます。ありのままを受け容れることができる、そんな心境です。
私の右手は仏の心、私の左手は衆生の心。ともに私の中にある心。指をそろえ、しっかりと合わせてみる。合掌は本当に美しい、とても有り難いかたちです。この習慣を、日々のくらしに持ち合わせましょう。
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