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【20060616山陰中央新報/教えの庭から】
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(飯塚大幸/一畑薬師管長)
「限りあるものから限りないものへの目覚め、それを誘う教えを宗教と言える」と。これは亡き師匠の言葉です。今から十五年前、初めて法話をすることになった私に、師匠はこの命題を与えてくれました。端的にして奥の深いこの一言は、私自身、自省して常に立ち戻るべき基本となっています。
一般に宗教と名がつけば、世間では敬遠されます。政治や教育などの公の場ではほとんど歓迎されません。宗教という言葉から受ける印象は、神や仏という神秘的・絶対的な信仰対象であったり、非現実的と思える世界であったり、一宗一派の布教宣伝や教団という組織のことであったりするからです。そして、宗教なんか必要ないと感じている人もあるでしょう。しかし、それらの印象はすべて宗派のことがらです。純粋な宗教本来のものではありません。
宗教とはもっと個人のものです。深い心の目覚めにかかわるものです。ただし、個人のものとは言え、得手勝手な個々人の心ではありません。喜怒哀楽、好き嫌い、我が思想信条というレベルではなく、もっと深い部分の心。人間の都合が聞いてもらいえない真理の世界の中での、個人の目覚めです。そういう意味で、宗派のことはともかく、私たちは真理の中で生かされているのだという宗教的情操こそが、子どもの頃からきちんと開発されなければならない、と私は考えています。
「限りあるもの」とは何でしょう。それは、始めがあり終わりがあるもの。生じたら滅するもの。いのちです。生きている以上、いつかはわかりませんが死があります。形のあるものもいつかは壊れます。国家や社会や家庭など、形がなくても永遠ということはありません。私の人生、死ねばそれで終わり、何事にも束縛されず、いつまでも自由気ままでありたい、という人生観。否定はしませんが、大きく欠落して足らないものがあると思います。
「限りないもの」とは何でしょう。それは大宇宙の営み? それは無限の彼方への時間の流れ? 厳密にわかりませんが、次のように考えてみるとヒントがつかめます。
いのちは頂いたものです。天からの祖先からの授かりものです。授かりものはお返ししなければなりません。お返しするときに、どうせなら散々くたびれて汚れたものを返すのではなく、すこしでも清らかな美しいものをお返しできればと願います。それは子孫への贈りものです。これ以上、残せる大切なものはないでしょう。私のいのちは、けっして私個人のものではなく、大きなつながりの中の小さな輝きのようなもの。たった一度しかない人生だからこそ、有り難さと謙虚さがなければならないと思います。
この世に、長く伝えられてきたものには理由があります。「正しい教えは滅びることがない」といわれるように、不正なものはやがて淘汰されます。長い時代を通じて、たくさんの国や地域で、異なる文化の中で、多くの先人たちによって確かめられ、吟味されたものだけが残ります。これは価値ありとして伝えられてきました。今もあせることなく輝いています。
「限りあるものから限りないものへの目覚め、それを誘う教えを宗教と言える」
やはり出会えなければもったいないです。
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