(一)雎鳩飛翔 (みさご ひしょう)
一畑薬師は、臨済宗(禅)のお寺で、一畑薬師教団の本山です。今からおよそ1100年前の寛平6年(894)、一畑寺の麓、日本海岸の坂村に与市(よいち)という漁師と、目の見えない母親が住んでいました。お盆の日、与市はとなりの赤浦へ漁に出ましたが、一匹もとれません。そのとき、ミサゴという鳥が、与市を呼び寄せるように輪を描いて飛んでいました。
(二)海中出現 (かいちゅう しゅつげん)
与市は不思議に思い、その近くへ船を近づけて見ると、沖の岩の海中にピカッと光る物が見えます。ゆっくりとすくい上げて見ると、それは立派なお像でした。
(三)仏像入村 (ぶつぞう にゅうそん)
与市はびっくりして漁を中断し、お像を持って家に帰りました。「盆なのに、与市が漁をして帰ってきた」と村人はいぶかしげに言いましたが、手にしている立派な像を見て、皆はおどろきました。
(四)如来安座 (にょらい あんざ)
よく解らぬままに、与市は、自分の家にそのお像を安置して、朝夕お茶や、お水、めずらしい物など、お供えして、礼拝しておりました。そうするうちに、時ならぬのに大風が吹いたり、突然大雷や、大雨や、地鳴りなど、不思議な事が起こり出しました。
(五)旅僧垂示 (りょそう すいじ)
ある日、一人の僧が一夜の宿をたのんで来ました。快く泊めて差し上げた与市に、こんな話をなさいました。「これは、左手に薬り壷、右手に施無畏の印を示しておられる。間違いなく薬師如来さまである。その昔、お釈迦様ご在世の時、インドの祇園精舎ににあって病気の修行僧を平癒させ給うたものである。そして廣厳城では、薬師経が説かれた。もったいないから、直ちにどこかよい霊地を選んで安置するように」
(六)夢中示現 (むちゅう じげん)
翌朝、旅の僧は少し離れて行ったと思うや否や、霧のごとく消えていきました。きっと薬師如来様の化身だったのだ、と与市は思いました。そうしたことがあったある日、薬師如来様が与市の夢枕に立たれました。「親孝行な与市よ、あなたの信仰心の深さを示すため、あの百丈が滝から跳び降りなさい。母親の眼は治ります。」
(七)千把投身 (せんば とうしん)
与市は、夢のお告げを信じ、百丈が滝から跳ぶ決心をしました。これを伝え聞いた村人たちは思いとどまるように説得しましたが、与市はどうしても聞き入れません。与市は身体に千把のワラを巻きつけました。「えーいっ」と与市は跳び降りました。わが子を案じて手探りで駆け寄った母の眼は見事に開き、与市としっかりと抱き合いお互いの無事を喜びました。それ以後、ここを「千把が滝」といいます。赤浦の潮汲み行をする人は、今日、この滝の近くを通ります。
(八)聖地探索 (せいち たんさく)
そのあと与市は薬師如来様を、背負って出かけました。迷っていると、三人の童子が、ニコニコ笑って手招きしています。ついていくと、眼の前が急に開け、眼下には宍道湖を望み、後方には天然の薬草も多く、当時ではめずらしいお茶も栽培され、足の下には水晶のような清水の出る所に来ました。背中もぐんと重くなりました。「ここだ」と与市は思いました。遠くへ跳ねて行く三匹の白狐の後姿が見えました。
(九)薬師奉安 (やくし ほうあん)
与市は造営を始め、四間四面のお堂が出来上がりました。海から上がった薬師如来様を安置しました。時に寛平6年(894年)4月8日でした。奇しくも、この日は降誕会(お釈迦様の誕生日)です。
(十)得度受戒 (とくど じゅかい)
その後与市は、比叡山延暦寺へおもむき、出家して名を「補然」(ほねん)と改め、摩訶止観の法を受けて帰り、薬師如来様のお堂を「医王寺」とし、お寺を開きました。
こうした話を聞き、近隣からも遠方からもお詣りが増え、「めのやくし」その地名を呼んで「一畑のやくし」と言うようになりました。
(十一)感応道交 (かんのん どうこう)
戦国時代には、因幡の新左衛門の一粒種の幼児の目が治った霊験が人々の話題にのぼり、「子どもの無事成長の仏様」というようにもなりました。天皇陛下からの勅願も賜り、流行の疫病退散の祈祷や、領主の、尼子、毛利、京極、松平から寺領の寄進もありました。
(十二)医王遍照 (いおう へんじょう)
武士の時代になってから、寺は天台宗から臨済宗となり、大正時代には、一畑薬師参拝のための一畑電車も通うようになりました。出雲地方を中心に、人々の信仰の力で、たくさんの一畑灯篭が建立されています。昭和27年、一畑薬師教団を開き本山となりました。全国に五十余りの分院があります。一畑薬師は、多くの人々の信仰の力によって出来た有り難い霊場であります。